スティグマ

ある人びとにとっては、わたしは困惑の種どころでは済まないのだ。わたしはしゃれこうべだ.わたし は、幸福な夫婦づれに出会うと、二人が考えていることが分かるのだ。「私たちのどっちかが、いつかはあ の人のようにならなきゃならないんだ」と。

(C.WSルイス「悲しみを見つめて」西村徹訳)

助けてくれるべき人々から、忌み嫌われているように感じることがある。まるで私が死で汚染されているかのようだ。まるで葬儀屋のように。

(C.WSルイス「悲しみを見つめて」西村徹訳)

身内の自死で、私たち一家は普通の家族ではなくなってしまいました。ワケアリの家族になってしまいました。あたかも不動産でいうところのワケアリ物件のように。
(グリーフカウンセリングセンター、鈴木剛子の紹介する例)

疎外感とスティグマ

スティグマは辞書的な定義では「他者や社会集団によって個人に押し付けられたマイナスなの表象・烙印」で、身体的障害者、精神疾患患者、高齢者、同性愛者、血友病患者などのマイノリティーやその家族に謂れない差別や偏見が烙印(スティグマ)として焼き付いてしまう事として知られています。

これと同じようなに、大事な家族を亡くした人たちにも自分たちがスティグマ視されていると感じることが往々にあるようです。マイルドな形では「親しかった友人と溶け込めない」「『ご不自由な男やもめ』を憐れむ視線を感じる」といった自分の認識の問題を主とする疎外感という形で現れ、比較的多くの人が経験します。
しかし中には認識の問題とは片付けられないほどはっきり「死に関わったもの」として強く疎外されている、避けられている、という感じを持つ事もあり、「スティグマ」の名にふさわしい体験をすることもあります。特に、下記のようなケースではこのスティグマの問題が顕著化しています。

  • 自死
  • AIDSなど伝染病による死
  • 犯罪などによる暴力的死

こういったスティグマの根底には「自分と違うもの」や「自分の身に同様の災いが起こるかもしれない事」に対する漠然とした不安や恐れがあり、その表現が「憐み」や「恐れて避ける」形で表現されるようです。また、一般に強く信じられている「善い行いをしていれば悪いことは起こらない」という信念は逆に、「禍が起こったものには何か悪いことがあるに違いない」であるという不合理な結論を導きがちです。
そして特に、死が「普通と違う」「自分に起こることは想像もできない」ものであればあるほどこの傾向は強くなり、自死、小さな子供の死、若い伴侶の死、犯罪における死、AIDSを始めとする伝染性の病気は「ありうるべきでない死」であるために強くスティグマ化される傾向にあります。

スティグマは偏見と非常によく似ており、それが人びと---『格印を押された」人を知覚する側の人)---の心に深く刻まれている場合、根絶するのは難しい。見る側の心の平安を維持するための防衛株能としての働きを担っているからである。(「悲しみに言葉を」:ジョン・H・ハーヴェイ)

社会は、明るくて元気、というのが好きなんですよね。暗くなったり、気を遣ったりしなければならないような人がそばにいるのがいや、というところがある。だから、それらの要素を「慰めの言葉』で排除しようとするんですね。こういう言葉をかける周りの人たちのなかには、病んでいる人、悲しんでいる人に、近くにいてほしくない、という心理があって、そういう気持ちに、遺族は気づいてしまうんです。

(若林一美(「小さな風の会」世話人)さんの言葉:「遺された人びとの心の声を聴く」:中島由佳利、三一書房, 2008)

スティグマに立ち向かう

ハーヴェイはスティグマに立ち向かう2つの方向性を提案しています。
一つはグリーフに苦しむ周りの人間に出来る事で、「自分の身に同様の災いが起こるかもしれない」という事実を重く見て、自らに起こるかもしれないという側面からスティグマを軽減できるのではないか、という考えを提示しています。

しかし、自分より不幸な人びとにレッテルを貼って自分を守るというやり方は、すべて錯覚だということを自覚する必要がある。場合によっては、私たち白身、もっと不幸な日に遇うかもしれないし、いつ友人や同僚のサポートが必要になるかも分からない。ほかの人が避けて通るような存在になるかもしれないのである。---中略--- 喪失によるスティグマ化をさまざまな角度から検討してきたが、その経験から正直に思うことは、われわれは皆、寛大さや公正な物の見方が出来るようになるし、同じような喪失に遭遇する可能性があるという点で絆を共有しているのだへという認識を深められるということである(ラーソン、1993)。

そして、スティグマ化されている人に立ち上がれ、と呼びかけてもいます。

このほかにも、スティグマ化の問題に取り組む方法がある。スティグマ化されたと感じている人の心に働きかけるのも一法である。彼ら自身もこうした問題に立ち向かい、ほかの人から避けられるという感覚が自分にどのような影響を与えているのかを認識しなければならないのである。自分が置かれている状況を隠そうとすることが、長期的に見てその人の自尊心を守ることにならないことは確かだろう。むしろ、自分が置かれている状況を公にして、1人の人間として尊重される権利があると主張することが、健全な対処と達成には不可欠だと思う