グリーフワーク

グリーフとグリーフワークの関係

グリーフはグリーフ(悲嘆)で見たように、肉体、精神、認知、行動、スピリチュアルといった面で現れる喪失に対する自然な反応ですが、喪失に対する究極的なゴールは、愛した人が本当に居なくなってしまったことを認め、精神的、行動的、社会的に変化して、その喪失をその後の人生に取り入れ、適応していくことです。
テレーズ・ランドーは「喪失への適応の仕組みを理解するには、愛する人の喪失への反応としてのグリーフと、その喪失と共に生きるために行う精神的な仕事(グリーフワーク)を分けて理解するのが非常に重要」だと言います。グリーフはそれ自体、複雑で、経験する者にとってつらい反応ですが、それを「経験するだけ」ではゴールに到達することは出来ないのです。
グリーフに対する反応(悲しみや辛さ)を経験する事自体を「グリーフワーク」であるという人もいますが、グリーフの反応とグリーフワークは分けて考えるべきです。グリーフによって、その人が本当に不在なのだということを知らずには、グリーフワークは始まらないのは確かですが、グリーフは始まりであっても全てではありません。

用語解説

グリーフワーク(grief work)は様々な呼び方をされています。トーマス・アティッグは「悲しむ営み(grieving)」という表現を使って表現しています。又、海外の文献ではmourningという用語を使っているケースもままあり、このmouningと言う単語が、日本語でいう「喪」という意味と、グリーフワークの意味(その場合は、「悲哀」と訳されていることが多い)で使われているため、紛らわしいことがあります。

死別への適応(死別は乗り越えられるか)

喪失からの完全な回復はあり得ない

さて、ここで少し話を元に戻します。
人は、本当に大切な死を「乗り越えた」り、「立ち直った」り、死の衝撃から「回復した」りすることが出来るのでしょうか。私たち、そしてグリーフの研究者たちは、それは、残念ながら、難しいことだと考えています。
一人の人の死は取り返しのつかない出来事です。死別による喪失は元に戻すことは不可能です。回復が「元の状態に戻ること」であるとするなら、それはあり得ないことと言ってよいでしょう。では、「乗り越える」ことは出来るのでしょうか。「亡くなった人の事は早く忘れて、強く前向きに生きる」べきでしょうか。もちろん、こういう方法で残りの人生を生きることは可能でしょうし、そうする人もいると思います。 しかし、私たちは、前に進むのに故人との絆を切ってしまう必要は無いと考えています。
では、遺された者は、どうなっていくのでしょうか。遺された者は死を「乗り越え」たり、「回復した」りは出来ませんが、故人の居なくなってしまった世界で、何とか生き延びていく ― 適応していく ― 事は可能です。

機能の問題としては回復できる

しかし、ロバート・ウェイスは、喪失からの回復は以前の自分に戻る事ではない、と上記の「完全な回復はあり得ない」という考えに同意しつつも、喪失からの回復を「活動機能レベルの奪回」とし、次のような基準を、ある程度達成する事が必要であると定めている。

  • 日常生活の維持に必要なエネルギーがある
  • 悲痛から解放されて心理的に安堵できる
  • 楽しい出来事を経験して、又それを期待して満足感を覚える
  • 将来の計画をして、それを思って希望的になる
  • 家庭内の役割や、職場などの共同体での役割をある程度の適性を持って果たせる

心理的喪失との和解を目指すことが出来る

さらに、「亡くなってしまったものは仕方がないと受け入れる」だけでなく、それ以上の喪失との和解も期待できます。ただ単に、新しい世界 ― それは大切な人がいないからでもあり、自分が変わったからでもあります ― と折り合いをつけて「生き延びる」だけではなく、故人との新しい心のつながりを大切にし、新しい世界をポジティブに生きる事が可能だと考えられます。

  • 変わってしまった世界を、故人の事を忘れずに、生前とは違う絆を持って生きていけるようになる。
  • 悲しみを持ったままで、ポジティブに生きる事が出来る。
  • 自らに起こった変化に、意味や価値、成長があると感じることが出来るようになる。

究極的には、これらが喪失への適応です。ここには新しい人生の始まりがあります。

グリーフワークとは

グリーフワークとは

さて、先に、グリーフが喪失に対する自然な反応だと説明をしましたが、この苦しみの状態から、適応へ向かう際に必要とされているのがグリーフワークです。
グリーフワークは、やや恣意的に訳せば「死別への適応作業」という事にもなります。作業、とは言っても「これこれをすればグリーフワークが進みます」というやる事のリストがあって、遺された人が一生懸命やる、といったたぐいの作業ではありません。 遺された者が、大切な人を失った喪失に向きあい、自分の気持ちを語り、考え、選択をし、行動をし、それを後悔し、その次にはまた少し納得のいくようにやってみる。そしてそういった作業の積み重ねの中で、行動の仕方、自分の物の見方を少しずつ変えていく、変わっていく、そういったことがグリーフワークなのです。
そして、このグリーフワークが進むにつれ、最初の圧倒されるようなグリーフの痛みは少しずつ弱まって来ます。

グリーフワークとは:具体的な例

もう少し具体的な例で説明をします。人はグリーフの痛みを感じ、失ったものを求めつつ悲しみますが、 一方、ほとんどの人は、そろそろと日常生活を続けていきます。
大切な人を亡くした後の「日常生活」はつらい事がたくさんあります。ある女性が、ご主人の遺品を整理していて、故人が好きでやっていたテニスのラケットをどうしよう、という事になったとします。テニスのラケットを見ていると、色々な事が思い出されます。何度も一緒にやろうと言われていたのに、ついにはじめなかった事。練習に行く回数が多すぎる、子供の面倒を見てほしいと喧嘩になったこと。一緒にやってあげたらよかったのかな、彼女は思うかもしれません。ラケットは大切にキャビネットに飾っておく事もできるでしょう。見るのが辛いので捨ててしまうこともできます。テニスの仲間に続けて使ってもらった方が故人は喜ぶ、と考えることもできます。テニス仲間の鈴木さんに電話をかけてみたら、ぜひ使わせてもらいたいと言います。持っていったら、故人がテニスを始めた頃のエピソードをいろいろ聞かせくれるかもしれません。彼女の知らなかった故人の話を聞くのは、うれしいような、辛いような気持ちです。鈴木さんは、彼女に、これを機会にテニスを始めたらどうかと言ってくれました。彼女は、今はその気になれないけれど、故人の好きだったスポーツを始めるというアイディアに、少し魅かれるかもしれません。このように、テニスラケット一つについても、「遺された者、故人、テニス」の三角関係を解いていかないといけず、それは辛さを全く感じずに行うのは難しい作業です。
しかし、この辛さには、自分で選択ができるという大きな違いがあります。死別は遺された者とって選択肢のない出来事でしたが、テニスラケットをどうするかは遺された者にチョイスがあります。テニスを始めるかどうかは、遺された者次第です。これが、喪失に向きあい、自分の気持ちを語り、考え、選択をし、行動をしていく、という事です。こういった行動の中で、一つずつ「遺された者、故人、世界(テニス)」の関係、意味を見直していく、これがグリーフワークなのです。

グリーフワークと適応

そして、人は、こういったグリーフワークを日常的にこなしながら、以前持っていた想定の世界を改編し、先にあげたような喪失との心理的和解 ― 適応した状態 ― に近づいていくという事が出来ます。この近づく過程をある程度項目づけしてわかりやすくしたのがグリーフワークの課題であるという事もできます。

グリーフワークの具体的な活動について

今まで見てきたように、グリーフワーク、という具体的な活動はありません。遺された者は、日常生活を送りつつ、今までの生活パターン、感情、期待、習慣を再構成していくのです。
しかし、そのコアとなるものが二つあります。
一つは、「自らの迷い、悲しさ、辛さ、などの様々な心の動きを表現する事」、そして、それを周囲の人々に「(概ね)肯定的に、共感的に受け止めてもらう事」です。 典型的には「親身になって聞いてくれる人に、故人について、お別れについて話をする事」を挙げられます。何度も死の様子を語る事で、死が現実であることを受け止め、自分の記憶を推敲し、他の人とのコミュニケーションの中で、故人と死をどのように位置づけるかを探っていきます。その他にも、日記を書いたり、写真を整理する、形見を大切にする、などの人の死後に典型的な活動も、情緒的な側面の見直しに有効な方法と言われています。しかし、通りかかった果物屋の軒先で「故人の好きだった桃を見つけた」ことすらも、グリーフワークきっかけとなることが出来るわけで、すべての日常生活がグリーフワークへのドアとなりると言えます。
もう一つは、主に生活面の立て直しです。人の死は、その人の担っていた役割をする人がいなくなったという事でもあります。料理、子供の送り迎え、車の点検管理、庭の木の剪定など、今までやったことのない役割をある程度こなす必要が出来てくるかもしれません。辛抱強く新しいスキルを習得して、自ら行うことで、自分の生活にコントロール感が戻る、という事も期待できる半面、難しい場合には、人に頼むなど現実的な対応をする必要な場合もあります。

具体的な活動とその留意点などについては実践的グリーフとの付き合い方セクションの具体的な活動についてを参考にしてください。また、語る事と意味再構成の考え方についてはナラティブを参照してください。

なぜ人は喪失に適応する(べきな)のか

ここまでのお話で一つ抜け落ちているのが、なぜ人は喪失に適応する、すべきなのかという点だと思います。
あるお医者さんが、グリーフに関して「人はどんな喪失感に打ちひしがれていても,前に向かって進まなければいけない」と書いていらして、私は、ずいぶん違和感を感じました。人は、それが普通だから、正しいから、という理由では前には進めないと思います。前に進むかどうかという意欲は、遺された者自身が見つける事ではないでしょうか。
失ったものを振り返って、グリーフの中に退却し続けることもできます。それは、今まで培ってきた行動、期待、習慣を変えるのは怖いからかもしれません。人に支援を求めたり、支援を受け入れるのを弱さの印、と考えているかもしれません。それとも、単に頑固なだけかもしれません。いずれにしても、グリーフの状態の中にとどまる事も可能だと思います。しかし、そこにあるのは、無力感にさいなまれること、もう機能しない行動や考え方や方法にしがみつく事、以前の生活に戻りたいと思っていつも拒絶される挫折感、故人に生き返ってほしいという虚しい切望、そういったものです。簡単に言えば、そこにあるのは、不幸です。
だから、前に進む方が良いのです。グリーフの状態に留まった時の暗い感情や、そこから一歩を踏み出さない100の理由にNOと言い、変化と新しい経験、選択肢にあふれた生活、「自分の物」とはっきり言える人生に踏み出す、というアイディアにYESと言うかどうか。そういう気持をは遺された者が自らの内に見つける事が出来れば、前に進むことが出来ます。
関連リンク:レジリエンスの「グリーフの状況におけるレジリエンス」

グリーフへの適応にかかる期間

グリーフの適応には、通常考えられレイルよりもとても多くの時間 ― 数年以上 ― 、人によっては一生かかると言われています。「ノーマルなグリーフ・プロセスの期間」で詳しく解説しましたので、ご覧下さい。